インドネシアで開催中のアジア大会バスケ日本代表の4選手が、買春したとして代表認定が取り消されました。選手たちが帰国した空港や謝罪会見には大勢の報道陣がつめかけ、ニュースで大きく取り上げられました。

アジア大会「買春、浮ついた気持ちで」バスケ4選手謝罪(毎日新聞)

一連の報道で気になったのが、「日本の公式ウェアを着て歓楽街に行った」事実の強調と、選手自身による「国旗に泥を塗ってしまった」という謝罪でした。「公」に対する謝罪は「誰」への「何」の反省なのかが曖昧になることが往々にしてありますが、買春の結果起こったことと買春行為は別のものです。私は、今回の批判や謝罪が、買春行為自体に宿る問題へあまり向かわなかったように感じました。

性に関することは最も個人的な領域に属するもので、個人の価値観や姿勢が如実に反映されます。正面から性を語るのが憚られる雰囲気が強い日本では、一部で表面的にスキャンダラスな話題として取り上げられがちな一方で、極限すれば「私は個人として他者とどう向き合うのか?」という問いかけをはらむ性というテーマについて、大人から子どもへ成熟した議論のバトンを渡すことがむずかしい状況があります。少し前に、中学校の性教育における「性交」ということばの使用を問題視した都教育委員会に対し、現場からの困惑の声が報じられたこともありました。

若い選手たちが、これまで学校や家庭、あるいはほかの場で、性をめぐってどのような教育を受けて(あるいは受けずに)それぞれの価値観を培ってきたのか、成人した個人としての責任と同時に、社会の責任も考える必要があると思います。そして今回の報道でその存在は触れられたものの、ほとんど一個の人格として人々の脳裏に描かれることがなかった買春相手の女性たち一人ひとりが、これまでどのような人生を歩んできて、なぜジャカルタの歓楽街で性を売るに至ったのかを想像することも、性教育のあり方を考えることにつながっているように思います。

(日本NPOセンターメールマガジンより転載)

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