今年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」に、国際協力NGOセンター(JANIC)の代表として参加してきた。

今から20年前にこのリオで開催された「国連環境開発会議(地球サミット)」は、気候変動枠組条約や生物多様性条約が署名されるなど大きな成果を上げた。それと比べて今回の会議は、世界中から数万人が集う大イベントだったものの、見るべき成果はとても少なかった。地球温暖化や福島原発事故など地球環境危機がさらに深刻化しているにも拘らずこのような結果に終わったのは、中国やインドなどの新興国及び途上国と先進国の間の合意形成が困難だったことが主な原因と言われている。しかし自国の利益を最優先せざるを得ない各国の政府代表による話合いは、グローバルな問題に適切に対処できない、という限界が顕在化したように見える。

ところでこの会議の最終日に採択された「我々が望む未来」と題する成果文章の冒頭は、「我々、首脳とハイレベルの代表は(中略)リオで会合し、市民社会が完全に参加し、持続可能な開発に向けた我々のコミットメントを再確認し(後略)」という一文で始まっている。この原案が示された段階で、JANICを含む数千の市民団体数は「我々が望まない未来」というアピール文に署名して、この会議の成果のなさに異議を申し立てると同時に、成果文書冒頭の「市民社会が完全に参加し」の削除を要求した。私たちは名目的には参加できたが、実質的参加の場は限られていたし、各国政府代表がグローバルな利益を優先しないことを強い不満に感じたからだ。しかし私たちが求めた削除はなされず、「政府も市民団体も一緒に」という誤ったメッセージが発せられた。

このように、政府はしばしば市民社会組織と一体であることを強調する。その方が、人々の理解を得やすいからだろう。確かに多くの場面で、政府とNPOやNGOがパートナーとして協働することは重要である。一方これまで7回掲載されたこの連載「視点・論点」の多くの筆者は、NPOが公的事業の下請け的な実施団体であってはならないこと、譲れない独自の価値をもつべきこと、市民社会組織としての役割の重要性などを強調している。翻って言うと、NPOやNGOが政府の下請けになっていくのではないかという危惧を、多くの筆者が共有しているからだ。

リオでの争点の一つは、「グリーン経済」だった。日本政府や多くの先進国は、20世紀の経済を「ブラウン(茶色)経済」とし、今後は世界全部がこの「グリーン経済」に移行していくべきと主張した。これに対して新興国や途上国は、自分たちの今後の発展が制約される恐れがあること、それに対する先進国からの支援が示されないこと、そして「地球を長期間大量に汚染してきた先進国と、最近汚染し始めた新興国や途上国とでは、責任は共通しても差異がある」という予てからの主張が十分受け入れられなかったといった理由から合意に達せず、結局「一つの選択肢」と位置付けられた。

私もこれに強い疑問を抱いたのは、このグリーン経済が原発に言及していないからだ。福島原発事故を経験しているのに、日本政府は原発が地球温暖化に対する切り札である、という従来の考え方を捨てきれていないように見える。

国家や政府の視点と市民や生活者の視点は、このように異なることが多い。この異なりこそが、NPOやNPOが大事にすべき視点である。これは、世界のどこでも共通する現象だ。一方世界は、移動手段やコミュニケーション手段の飛躍的な発展によって、十分に縮まっている。だから「グローバル市民」や「グローバルな市民社会組織」が育つ素地が十分になってきている。
リオでこんなことを強く感じたのは、私一人ではないはずだ。