東京・築地市場が移転し、今月11日から新たに豊洲市場として開場しました。この前後は多くの関連ニュースが流れましたが、主に話題になったのは、採算性や施設の利便性、土壌汚染の影響の検証などです。ひとしきり報道がなされた後、移転に反対していた人々の声は「すんだこと」として触れられることもほとんどなくなりました。

紆余曲折があった移転の過程を、私はこれまで横目で眺めていただけの立場ですが、先に挙げた利便性などの点ばかりが「争点」として最後まで進んでいったことに、何となく違和感がありました。言葉にしにくいものが、そのまま言葉にならずに消えていったという感覚が、少し後味悪く残りました。

そんな時、ある国際会議で地方の衰退と人口減少をテーマにした発表を聴き、築地市場の移転をめぐる人々の胸の内を想像するきっかけになりました。「私達の国では、人には『根っこ』があるという考え方が強い。地方から都市への大量人口流出は、多くの人々の『根っこ』を断絶した。今、農村が育んできた伝統と文化に内包される『よきもの』の大量消失が起こっている」。お隣の国・中国では、経済格差を背景に出稼ぎや対貧困政策にもとづく農村から都市部への移住、そして農村自体を都市化させようという急速な開発が進んでいます。発表者は、それにともなって起こる「よきもの」の消失に危機感を抱いていました。

日本を含む多くの国に共通するこうした地方の縮小問題と、築地市場の移転は、一見関係ありません。けれども、私が以前感じた移転問題の「争点」への違和感は、この「よきもの」の消失という点でつながっているように感じました。経済的合理性や利便性、土壌汚染をめぐる科学的な根拠などによる議論の土俵が用意された後で、例えば人の根っこ、文化や伝統といった言葉を持ち出して対抗しようとすれば、いかにも青臭い感じがします。あまり相手にされないし、第三者への説得性も薄い。けれども、市場で働いていた人々の中には、83年という長い時間をかけてそこで培ってきた「よきもの」が失われるのが何よりつらい、という気持ちもあっただろうと思います。

「よきもの」という言葉は抽象的ですが、ふつうの人々が日常の中で、それぞれの土地に張った根っこから吸い上げてきた知恵や思想、習慣、人とのあたたかい関係、愛着のようなものと言えるかもしれません。これら無形の「よきもの」は、膨大な時間をかけて人のこころを土台に築かれてきたもので、たぶん私達の多くが、意識しなくともこれらに支えられています。けれども、いざ「公」の場となると、経済的・科学的な合理性の主張に、こうした無形のものを対置して発信することには何となく気が引けてしまう。それは、社会が人のこころを「青臭いこと」と捉えていることを、私を含む多くの人が無意識にでも感じ取っているからかもしれません。移転の過程でも、こうしたことは反対の主要な根拠にはなりませんでした。そもそも、「よきもの」は、政治的なイデオロギーや経済合理性とは無縁の、一人ひとりの人のこころを土台に作られてきたものだから、公的な議論の場では分が悪いということもあります。

人の移動や環境の更新は、社会を活性化させ、文化を豊かにしてきた側面もあります。人の根っこを引き抜いて別の土に植え替えることは、リスクと同時に、これまでになかった豊かな花を咲かせる可能性も秘めていることは確かでしょう。ただ、一度失った「よきもの」は、別の場所で完全に同じかたちに復元しうるものではないという事実を、私達は肝に銘じる必要があるように思います。数十年、数百年単位で引き継がれてきたものは、強さと同時に、偶然性をはらむ時間の積み重ねで築かれた一回性の繊細さに支えられています。

さまざまな場所で、ふつうの人々が自分たちの根っこを引き抜かせまい、あるいは自分たちが根っこを張る土地を汚させまいとする必死の行動をしている中で、合理性という大きな言葉にそれらが飲み込まれないようにするために、「よきもの」が私達にとってなぜ大切なのかを改めて言葉にし、新しい表現を見つけていくことが求められていると思います。

(日本NPOセンターメールマガジンより転載)

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