はじめに
ソーシャルイノベーションは、高齢化、労働力不足、社会的排除といった重要な課題に対処するための強力な手段です。この概念は、新たな発想や仕組みを活用することで人々の暮らしをより良くし、地域社会のつながりを強めることを目指します。例えば、遠隔地の医療不足を解消したり、地域住民が主体となる教育プログラムを実施したり、様々な立場の人が協力して失業問題に取り組んだりする活動が、その具体的な例です。
欧州連合(EU)では、ソーシャルイノベーションは主に欧州社会基金(European Social Fund、以下、ESF)によって手厚く支援されています。2021年から2027年までのESFの予算規模は1,427億ユーロ(日本円で約23兆円強)にのぼり、教育、雇用、社会福祉、社会的包摂といった分野で、特に弱い立場の人々への支援に重点が置かれています。もちろんEU加盟国は、それぞれの国家予算で独自の社会政策を進めていますが、ESFはEU全体での資金を提供しています。これら二つのレベルの支援は、多くの場合互いに補完し合います。具体的には、ESFからの資金が国家プログラムに共同で出資されたり、その活動範囲を広げるための強化として活用されたりしています。
そしてソーシャルイノベーションを大きく支えるのが、ソーシャルエコノミー*と呼ばれる分野です。これには、協会、協同組合、非営利組織(NPO)、共済組合、財団、社会的企業など、多様な組織が含まれます(OECD、2022年[1])。
*訳者注:「ソーシャルエコノミー(社会的経済とも訳される)」とは、特にフランス、スペイン、イタリアといったラテン諸国で広く受け入れられている概念であり、文中でも述べられているような多様な主体によって構成される経済活動を指します。EUではソーシャルエコノミーを推進するためのアクションプランが策定されており、税制優遇や資金提供、研究・研修の促進といった様々な措置を通じて政策として実施されています。
日本では、ソーシャルエコノミーやソーシャルイノベーションの概念がまだ発展途上ではあるものの、少しずつ注目を集めつつあります。そのような状況において、ヨーロッパのアプローチは日本にとって重要なヒントになるかもしれません。その象徴が、日本では「インパクトスタートアップ」とも呼ばれる社会的企業の台頭と、2020年に画期的な「労働者協同組合法」が成立したことで広がりを見せる協同組合運動です。本稿ではこうした背景を踏まえ、日本とヨーロッパを比較しながら、社会的課題への取り組みとその中でソーシャルエコノミーが果たす役割について探ります。特に、日本の非営利セクターが、主に民間からの寄付や会費、企業のフィランソロピーによって支えられている現状を踏まえ、政府の支援を強化することで非営利セクターの認知度を高め、その成長を促進し、社会的課題への対応力を向上させる可能性についても論じています。
筆者は現在、経済協力開発機構(OECD)の地域経済雇用開発(LEED)プログラムで政策アナリストの業務に携わっています。扱っている研究テーマは、ソーシャルエコノミーやソーシャルイノベーション、地域開発、ボランティア活動など幅広い分野にわたります。東京に生まれ、ヨーロッパの様々な都市で育ち、ジュネーブの大学院を修了した経験を活かし、本稿ではヨーロッパと日本のそれぞれの視点を踏まえた比較を試みています。
OECDでの業務や国際的な経験を通じて、ヨーロッパ諸国ではソーシャルエコノミーに関する制度や政策が整備されているのに対し、日本はこの分野で試行錯誤を繰り返しながら発展の途上にあると実感しています。この違いは、日本が直面する課題と秘められた可能性を明確に示していると言えます。一方では、ソーシャルエコノミーへの公的支援や認知度向上の重要性が指摘され、他方では、地域社会を基盤とするソーシャルイノベーションの潜在力や拡大するソーシャルエコノミーの発展に対する期待が高まっています。こうした異なる視点を結びつけることで、日本における包摂的で地域に根ざした社会的課題の解決をさらに促進する対話のきっかけを生み出したいと考えています。
ヨーロッパと日本の共通点:労働人口の減少に伴う技能不足とミスマッチ問題
ヨーロッパでは労働年齢層の人口が減少しており、それが技能不足やミスマッチを引き起こしています。推計によると、労働人口は2040年までに1,500万人、2050年までにはさらに2,700万人減少するとされています。また、ヨーロッパ域内の格差も依然として大きな課題で、ヨーロッパ全体の20%以上にあたる約9,500万人が貧困や社会的排除のリスクにさらされています。気候変動、労働人口の減少、格差の拡大などの問題が深刻化する中、ヨーロッパにとって公平で包摂的な回復を実現することは欠かせません(European Commission、n.d.[2])。
日本も同様の課題に直面しています。OECD諸国の中で高齢者の割合が最も高く(図1参照)、高齢化は日本にとって避けて通れない人口構造上の大きな課題となっています。また、出生率の低下と相まって、労働力不足や働き手の減少が続いています。さらに、機会への平等なアクセスも懸念事項です。なぜなら、日本の男女間の賃金格差はOECD諸国の中で4番目に高く(21.3%)なっているからです(OECD、2024年[3])。こうした課題に対応するうえで、ESFのように、ヨーロッパが進めている取り組みから多くの示唆を得ることができるかもしれません。
図 1. OECD加盟国の高齢者人口
OECD加盟国における65歳以上人口の割合(2022年時点)
出典:OECD、n.d.[4]
EUにおける労働力不足と高齢化に対応するESFの支援
ESFは、1957年に設立されたEUの主要な支援制度です。「欧州社会権利の柱」の基本理念に基づき、雇用の促進、教育やスキルの向上、社会的包摂といった分野の取り組みに資金を提供しています。この基金は、EU加盟国が失業率を下げるための支援を行っています。また、社会的弱者や疎外されがちな人々を社会に統合し、すべての人に公平な機会を提供することを目指しています。さらに、この基金は、欧州連合構造基金の一部で、7年ごとに運営されています。特に、労働政策の分野では、EUにとって最も重要な資金提供手段とされています。
2021年から2027年の新たな計画期間において、この基金は以前の複数のEU資金支援策を統合し、その対象範囲を拡大したことを示す「欧州社会基金プラス(ESF+)」という名称で活動しています。加盟国からの毎年の拠出によってEU全体の予算が賄われており、その一部であるESF+の予算は現在1,427億ユーロ(日本円で約23兆円強)です。基金の目的と、最も支援を必要とする人々への的確なサポートの必要性から、支援対象となるのは、失業者や非就労者、女性、若者、高齢者、民族的少数派や移民、そして障害のある人々などです。
もともと1957年に設立されたESFは、当初、労働移動の促進や職業訓練に重点を置き、経済統合を支える役割を担っていました。しかし、1980年代から1990年代にかけて、その活動範囲を広げ、失業問題への対応や社会的結束を強化し、さらにヨーロッパ全体の域内格差是正に取り組むようになりました。そして21世紀を迎える頃には、ESFは「リスボン戦略」によるEUの新たな目標と深く結び付き、包摂的な成長とイノベーションの重視という方向転換を行いました。これに伴い、資金提供の重点は、労働者のスキルの向上、生涯学習、社会的包摂といった分野へと移行していったのです。
ソーシャルイノベーションも支えるESFの役割
近年、デジタル化やグローバル化などの新たな課題が増える中で、ESFはソーシャルイノベーションへの支援を強化しています。ESFは、失業や社会的排除といった問題を解決する新しい方法を見つける手段として、積極的にソーシャルイノベーションを支援しています。さらに、ESF+では、すべてのEU加盟国がソーシャルイノベーションを優先事項として位置づけることを義務付ける新しい規定が導入されました。これは、各国がソーシャルイノベーションプロジェクトに対してEUからの共同資金の95%を請求できるという強力な財政的インセンティブを伴います。これらの規定により、社会問題への対応や包摂的な成長を促進するために、より革新的なアプローチを採用する姿勢が明確になっています。
一方でOECDは、2000年にソーシャルイノベーションを初めて定義した国際機関です。その定義では、ソーシャルイノベーションとは、「概念、プロセス、製品、または組織の仕組みに変化をもたらす新しい解決策を創出し、それを実現することで、個人やコミュニティの福祉や幸福を向上させることを目的とするもの」とされています。簡単に言えば、ソーシャルイノベーションとは、人々や地域社会の生活をより良くする新しいアイデアや仕組みを生み出すことを指します。
ソーシャルイノベーションは、上述のようにソーシャルエコノミーによって支えられていて、多様な団体で構成されています。これらの団体は、利益を最大化することよりも、社会的目標を達成することや連帯の価値を重視しています。また、活動の運営においては、民主的で参加型のガバナンスが重要視されています(OECD、2022年[1])。
OECDは、2025年後半に発表予定の報告書で、ソーシャルイノベーションを促進するための条件や始める方法、広げる方法、維持する方法について幅広い視点から検討を行っています。この報告書は、2014年から2020年の期間にESFが資金提供した96件の取り組みを各国で評価したデータ、利害関係者との協議、専門家へのインタビュー、そして詳細な調査をもとに作成されています。報告書は、ESFが社会的課題の解決に果たした役割を評価し、特に複数の関係者や異なる分野間の連携による革新的なアプローチに焦点を当てています。また、教育、労働市場への統合、女性や移民、若者など、社会的に弱い立場にあるグループを対象とした社会的包摂に関連するベストプラクティス(優れた事例)が取り上げられています。さらに、この報告書に含まれるエビデンスに基づく知見や政策提案は、ESFの将来のプログラム計画をより良くするために、欧州委員会を支援することを目的としています。
ソーシャルエコノミーとソーシャルイノベーションから日本への教訓
日本が労働力不足の解消、高齢者の活躍促進、人口構造の変化への対応を考えるうえで、勢いを増しているソーシャルエコノミーは、長年の課題解決に向けた絶好の機会となります。ソーシャルエコノミーを支える制度を強化し、ソーシャルイノベーションを促進することで、長年の課題に対応できるチャンスとなります。例えば、2000年代初頭には1万件未満だったNPO法人の数が、現在では約5万団体弱になっています。また、日本で「インパクトスタートアップ」として知られる社会的企業も、過去3年で10倍に増え、206社に達しました(Impact Startup Association、2025年[5])。さらに、協同組合の活動も非常に活発で、日本には6,500万人の会員がおり、年間売上高は1,450億ドルにのぼります(ICA-AP、2019年[6])。こうした動きは、2020年に制定された「労働者協同組合法」によってさらに強化されました。この法律は、高齢者の雇用を促進し、地方の女性や若者に新たな機会を提供しています。
多様なソーシャルエコノミーの組織が、労働力不足の解消に積極的に取り組み、女性が社会で活躍するための就労機会を提供しています。ソーシャルエコノミーの日本での一例として、株式会社ママスクエアというインパクトスタートアップがあります。このインパクトスタートアップは、子育てをしながら働きたいと願う母親たちの声をもとに設立されました。ママスクエアは、子どもと一緒に過ごせるガラス窓で仕切られたキッズスペース付きのワーキングスペースを提供し、母親たちが安心して働ける環境を整えています。 2014年の設立以来、日本各地の自治体と提携し、この取り組みを広げてきました。2018年には「EY Innovative Startup 2018」(子育て分野)を受賞しています。このような革新的な取り組みは、特に日本において重要な意義を持っています。日本では、働きたいと願いながらも出産や育児の負担から31%の女性が就業を断念している現状があります。そのため、妊娠・出産後も女性が働き続けられる環境を整えることが求められているからです(Nakamura et al.、2022年[7])。
もう一つの例として挙げられるのが、「労働者協同組合上田(通称 労協うえだ)」です。この協同組合は、労働者協同組合法が施行された直後の2023年に設立されました。代表の北澤隆雄氏によれば、この仕組みでは、働く人が主体的に関わり、自分たちが仕事の原動力となることで、退職後も充実した働き方を実現できるとされています。労協うえだには13人の高齢者メンバーが所属しており、高齢者向け住宅設備の改修や庭の手入れ、メンテナンス、清掃といった仕事に取り組んでいます。この取り組みは、高齢者同士が支え合うことで、日本の人口問題の解決に寄与できることを示しています。また、出生率の低下や急速な高齢化が進む中、高齢者のニーズに応えながら、活躍を続けたい高齢者を支援する持続可能な解決策として機能しています。
結論
日本は、成長を続けるソーシャルエコノミーを活用するために、ESFのような制度的な資金提供スキームを導入検討する価値があるかもしれません。ヨーロッパと同じような課題を抱える日本にとって、ESFを通じてソーシャルエコノミーを活用するヨーロッパの方法は、貴重な示唆を提供するのではないでしょうか。その際、政策立案者や関係者に役立つ「OECDのソーシャルエコノミーツールキット」があります。このツールキットは、OECDが推奨する「社会的連帯経済およびソーシャルイノベーションに関するOECD勧告」(日本語(PDF)でも閲覧可能)の9つの基盤を効果的に実施するための指針です。長期的な財政支援を通じて、革新的な取り組みが促され、ソーシャルエコノミーの潜在能力が最大限に引き出されれば、日本の社会的課題を解決するための新たな道が開けるでしょう。
文献一覧
European Commission (n.d.), What is the ESF+?, https://european-social-fund-plus.ec.europa.eu/en/what-esf. | [2] |
ICA-AP (2019), Cooperatives in Japan, https://icaap.coop/wp-content/uploads/2024/05/2019-Japan-country-snapshot.pdf. | [6] |
Impact Startup Association (2025), Members, https://impact-startup.or.jp/en. | [5] |
Nakamura, Y. et al. (2022), “Occupational stress is associated with job performance among pregnant women in Japan: comparison with similar age group of women”, BMC Pregnancy and Childbirth, Vol. 22/1, https://doi.org/10.1186/s12884-022-05082-3. | [7] |
OECD (2024), OECD Employment Outlook 2024 – Country Notes: Japan, https://www.oecd.org/en/publications/2024/06/oecd-employment-outlook-2024-country-notes_6910072b/japan_85e15368.html. | [3] |
OECD (2022), Recommendation on Social and Solidarity Economy and Social Innovation, https://legalinstruments.oecd.org/en/instruments/OECD-LEGAL-0472. | [1] |
OECD (n.d.), OECD Data Explorer, https://data-explorer.oecd.org/?lc=en. | [4] |