先日の西日本豪雨災害では、同時多発的に深刻な被害が生じた被災地の復興支援にマンパワーが大量に必要とされるということから、文部科学省が全国の大学に対して、学生たちが被災地でのボランティア活動に参加しやすくするために、補講や追試、レポート、実習認定などによる配慮を求める通知を出した。こうした通知は、東日本大震災の際にも出されている。

2年後の東京五輪に向けても、東京都が主催する大会ではあるが、やはり文部科学省がスポーツ庁とともに、五輪ボランティアの主力と目されている学生たちが活動しやすくするために、授業や試験の時期を大会期間から外すことを求める通知を出している。

どちらも、希望する学生たちの参加を促進するために、環境整備をしてほしいというロジックだ。一見、学生の自主性を尊重しているのだから「何か問題が?」と言われそうだが、敢えてこれらはボランティア活動の美名の元に、若者たちを動員する策として「危うい」といいたい。

本来、国が責任を持って進めるべき被災地の復興だが、公平性の原則から私有地の片付けなどきめ細やかな支援を国では行えないということもあり、ボランティアが必要とされる。だからといって、「ボランティアは絶対善である」という前提に立って国がボランティア活動を奨励することは危険である。

ボランティアとは、元々は義勇兵を表す言葉であったものが、近代になって徐々に「自由意志により非営利の社会貢献活動を行う個人」を表す言葉として定着してきた。米国では徴兵制があった第二次世界大戦やベトナム戦争までは、現代的なボランティアという意味とは別に、志願兵のこともボランティアと呼んでいた。当時の志願兵はアメリカ市民にとってはヒーローだっただろうが、日本やベトナムの人々からすれば悪魔に見えただろう。

災害の被災者を手助けする場合にも、国が後押しする災害ボランティアセンターに登録して、その管理下で活動してくれるボランティアは被災自治体にとっては安心だが、独立独歩で活動するボランティアは秩序を乱す存在として煙たがられる場合もある。しかし、独立独歩であるからこそ、自らの経験や専門性を発揮して被災者にありがたがられる場合だってある。

ボランティアとは、そのように、関わる人の立場や置かれた状況によって、ありがたかったり迷惑だったりするものなのだ。国家権力がボランティアを「絶対善」としてしまうと、国家権力にとって都合の良いボランティア活動のみが促進され、逆に都合の悪いボランティア活動は排除され、自由意志の原則が脅かされることになる。

国家権力に都合の良いボランティアのみが歓迎されるという構図は、五輪ボランティアではさらに顕著である。五輪という平和とスポーツの祭典を手助けするボランティアは「絶対善」だと、組織委員会も国も考えているのだろう。

一方、金メダルの数を大会成功の指標にするようなスポーツ推進のあり方が、勝利至上主義を招き、スポーツを通した健全な精神の育成を妨げるとして、オリンピックに懐疑的なスポーツ指導ボランティアがいてもおかしくない。「みんな違ってみんないい」という金子みすずの詩に共感する立場から、パラリンピックが人間を身体的能力によって差別する価値観を助長するとして、異を唱えるボランティアがいてもよいはずだ。しかし、これらのボランティアの主張を五輪の組織委員会も国も歓迎はしないだろう。

国家権力が権力側に都合の良いボランティアのみを「絶対善」と位置づけて、大規模災害による国家的危機や、五輪のような国家全体で取り組むイベントに、「学生」という若い世代をマンパワー不足の補填要員として大量に動員しようとしている点は、さらに危うい。

今の国による学生ボランティア活動促進策は、敗色濃厚となった大戦末期に動員された学生たちを、英雄として煽り立てた「学徒出陣」とメカニズムが似ている。戦争を「国家を守る絶対善」として、異を唱えることができない雰囲気を社会に蔓延させ、国に命を捧げる自由意志のみをもてはやした時代を忘れてはならない。

災害ボランティアも五輪ボランティアも、それを否定しようという趣旨で書いているのではない。私自身は、大学の教員として、東日本大震災以来、学生たちとともに災害被災地でボランティア活動を重ねてきた身だ。五輪ボランティアなどについても、欧米でスポーツイベントなどを盛り上げるボランティアの姿は、自由意志に満ちていて、誰かのお手伝いではなく、自分自身が大会をつくっているという誇りも感じられて、好意的に捉えている。

しかし、ボランティア活動の促進は、権力の意思と結びつけられてしまうと、自由意志による参加ではなく、扇動された動員になり、結果として多様性を欠き、国家のお墨付きを盾にして、異論反論を許さない独善に陥る危うさがある。長年ボランティア活動の推進に関わってきた者としての警鐘である。