数千人以上の住民が組織的に虐殺やレープの被害を受けたのに、その醜悪な犯罪が裁判で明らかにされないままに、被害者を元の状態や場所に連れ戻すということがどれだけ非道なことかを、改めて説明する必要はなかろう。しかしそんな不正義が、バングラデシュ南部で呻吟(しんぎん)しているロヒンギャ難民にはまかり通ろうとしている。

ロヒンギャの人々は、1971年のバングラデシュ建国以来これまでに三回、ミャンマー(ビルマ)から流入している。最初は1978年、次は1991~92年、そして今回である。初回に流入した難民の多くは順次帰国したが、1982年にロヒンギャの人々の国籍が奪われたために、二回目の難民の帰国は容易でなく、帰国を拒否するもの、帰国したものの再度戻ってきてしまったものなどがいて、今回の流出前に20~30万人のロヒンギャの人々が、バングラデシュのコックスバザールに滞留していた。

そして今回の大量流出は2017年8月に、政治的作為の疑いの強い出来事をきっかけに始まった。同月24日、ミャンマー政府が設置したコフィー・アナン元国連事務総長を委員長とする特別諮問委員会がその報告を公表し、国籍法を改正してロヒンギャに国籍を付与することなどを勧告した。ところがその翌日の8月25日、ミャンマー国境でアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)と称する弱小なロヒンギャの武装組織がミャンマーの軍や警察関係の20箇所以上を襲撃し、ミャンマー政府によるとテロリスト77人と、治安部隊12人が死亡した。この襲撃に対抗した掃討作戦として、ミャンマー軍はロヒンギャの村々に対する大規模で残忍な攻撃を開始した。この「民族浄化」とも呼ばれるこの作戦の結果、正確な数は不明だが1万人ほどの男性を中心とした死者と数百~数千人の女性のレープ被害者に加えて、19年夏までには74万人がバングラデシュに流入した。

この結果、以前から存在した二か所のロヒンギャ・キャンプ周辺などにそれらの難民が集められ、現在では30余りのキャンプに分かれて居住し、バングラデシュ政府と国連、NGOなどの支援を受けている。バングラデシュ政府は、近隣大国を考慮してこれらの人々を難民法上の難民ではなく、「一時的不法入国者」として扱っている。このため、難民のキャンプ外への移動は制限されている。しかしバングラデシュ政府は、この人たちが帰国の条件としている帰国後の安全と人権の保障、そして国籍付与を支持しており、19年8月末まで帰国は実現していない。

ミャンマーがロヒンギャの人々を放逐した理由は、この人たちはロヒンギャと言う名称の固有の民族集団ではなく、バングラデシュから不法入国してきたベンガル人の「不法入国者」と捉えているからだ。

しかしこれらの人たちの幾人かの先祖は、1785年まで存在していたミャンマーのアラカン王国に暮らしていたことは確かだ。その後の第二次世界大戦時には、日英両軍の影響を受けてロヒンギャとアラカンの人たちと武力衝突している。1948年のミャンマーの独立直後には、ロヒンギャの一部の人は分離のための武装闘争も行った。一方その当時の新生ミャンマーの国会にはロヒンギャ人議員も存在した。また1947年のインド・パキスタンの分離独立や1971年のバングラデシュ独立時などの混乱期には、多くのベンガル人がこのアラカン地方に流入してきただろうし、その後も国境を跨いだ通婚や移住が双方向であったはずだ。しかしそれらの実態は、容易には分からない。

仮にロヒンギャの人たちの出自が不明であっても、このような不正義は看過されてはならない。しかし、その不正義な状態とその結果としての難民状態は、残念ながら当分「持続」しそうである。というのは、ミャンマー政府は一部の難民の帰国を認めても、国籍や人権保護は与えると保証してないからだ。ミャンマーの民主化のシンボルであるアウンサンスーチー氏も、この軍主導ながら国民の支持を広く受けているこの事態に、容易に口を挟めない。結局、経済的には豊かでないバングラデシュに、難民たちは長期滞留せざるを得ない。その間に、麻薬や人身売買といった犯罪が増加するし、下手すると新たなテロの温床になってしまうだろう。

ロヒンギャ難民支援はそれなりにしている日本政府だが、残念ながらこの不正義をただすことには熱心でない。また多くの日本の人たちは、この問題にあまり関心を払っていない。世界的にも、ロヒンギャ難民支援の資金は十分集まっていない。

「だれ一人取り残さない」SDGsは、ロヒンギャの人たちにどんな意味があるのか、という厳しい問いが、今私たちに突き付けられているように思うのは筆者だけだろうか。

より詳しく知りたい方には、最近出版された「ロヒンギャ問題とは何か」(日下部尚徳他編著、明石書店、2019年)をお勧めしたい。