参加費がタダだとだめな気がする。それは、よい社会を作ろうといいながら、格安のお弁当を買っているのと似ている。タダそのものがだめだとか、格安のお弁当そのものがだめだと言っているのではないが、それだけでは、だめな気がする。タダにはタダの理由があるし、格安にも格安の理由があるのだ。

民間がタダにするにはタダにする側に何らかのメリットがなければ、タダにできない。一般的には、より多くの方に使ってほしい、買ってほしい、参加してほしいなど、「多く」なることがメリットになると確信できるときにタダになる。しかし、何らかのサービスや物品にはコスト(費用)がかかっている。冒頭に述べたお弁当を格安で手に入れたとする。そのお弁当にお米が入っていればお米を作った人がいて、それを仕入れた人がいて、炊いた人がいて、詰めた人がいて、やっと売ってお弁当代を手に入れる人がいる。みんな適正な費用を得ているのだろうか。薄利多売でそのお弁当屋さんは例えば1日1000個は売っているから大丈夫なのだろうか?気になってしょうがない。

日本NPOセンターでは、さまざまな研修を主催し実施しているが、特別の事情がない限り、「タダ」で実施することはない。設立した翌年の1997年に実施した「NPO全国フォーラム」は、2日間の実施で参加費は1万円。当時も結構高額だと言われた。しかし、損益分岐である700人の定員を超え、「市民社会をつくるんだ!」という熱い思いをもった方々が全国から参加された。フォーラムを実施するには、人件費、会場費、講師料、印刷費、広報費などさまざまな費用が発生するが、NPOのための交流や研修の機会となるため、極力自前(参加者にも応分負担)で行うことにしている。もちろん、フェスティバルや啓発イベントなどは、多くの方に参加してもらうことに意味があるということで、参加者の負担を肩代わりしてくれる、助成金や協賛金を得て、参加費を格安?にすることもある。

しかし、私が気になっているのは、行政の委託事業として、NPOが受託して行う講座のほとんどが参加費がタダなことだ。NPOのマネジメント講座から、行政とのパートナー-シップを学ぶ講座、はたまた、ソーシャルビジネスを始めよう!というような、さまざまな講座が全国至る所で実施されているが、対象がだれであろうと参加費がタダなのだ。行政が主催であればしようがないだろうか?
参加対象者が、そもそも、その講座にかかっている「費用」プラス「価値」の参加費を払えるか払えないかという検証よりも、多くの人に参加してほしいというだけで、参加費をタダに設定し、その最低限の費用を行政などからの受託で賄おうとするのは、その講座の価値適正さが、NPO側にも、行政側にも、ひいては、参加するひとりひとりにも見えなくなってしまうのではないかと思うのだ。

地域で行われるNPOの講座のほとんどがこのように参加費がタダだとするならば、市民はタダになれてしまい、必要なもの、良いものを選んで、参加費を払って参加するという当たり前のことが崩れてしまうのではないだろうか。これは、自立した市民でつくる市民社会をつくることになるのだろうか?よいものを自信を持って提供するのであれば、その価値にきちんと費用を払う市民を増やすことが重要なのではないかと考える。

NPOは、行政(や企業)から複雑な社会課題を解決するときの協働相手の一つとして、大きな期待を寄せられているが、一方で、NPO自身の経済的な自立という大きな課題も突きつけられている。NPOが経済的に自立するときに、講座というサービスや商品を、よりよい価値、適正な価格で一般の方に買っていただけるようになることが、会費や寄附という支援性の財源との多様化との相乗効果でより自立に向かえるのではないだろうか。
コストが払えない人、経済的に厳しい人に配慮することは重要である。ただ、税金が原資だからと、講座を受けることができる人はほんの一握りであるにもかかわらず、参加費をタダにすることに疑問を感じる。特に、講座は、ある種の自己投資しである。あぶく銭は身につかないと言われている。身銭を切って習得したものほど、真剣に学べるはずだ。行政は、お金を戻すところがないという理由を当然のように言ってくるが、手続きが大変だからだと講座をタダにしてしまうのも本来の目的から外れているように感じてならないのだ。

NPOは、もっともっと一般の市民に向かって活動を展開する時期に来ているのではないか。
道具と環境はそろいつつある。

講座だけに限らず、NPOの価値と信頼を安心して買っていただけるようになることが、エシカルコンシューマー(倫理的消費者)を育てることになり、私たちの目指す、責任と自律のある個人の選択によって創られた市民社会を創ることにつながると信じているのだが、大げさだろうか?