今年の6月12日、前置胎盤で2か月間入院生活を送っていた娘が、帝王切開で女児を出産した。体重2540gの小さな命は何にも代えがたい感動を私に与えてくれた。しかし、孫娘は呼吸がなかなか整わないために、誕生直後からNICUに入った。6月18日に無事退院したが、なかなかオッパイを飲まず、体重も落ちていった。そして、運命の日はやってきた。

6月21日の午後14時ころ、孫娘が生まれた病院の小児科医から、緊急の電話がきた。私はたまたま午前中の仕事を終え、一度自宅に戻っていた時だった。電話に出た娘の声が震えている。震える手でメモ帳を取出し、何か書き始めた。覗き込んでみると、「メープルシロップ尿症」と書かれていた。聞きなれない、見慣れない病名である。先生から、この病気の専門医のいる病院の小児科にすぐに行くようにという指示があった。急ぎ支度をして、病院に向かった。到着後すぐさま「NICU」に入れられて、治療が始まった。日本では、1977年以降、新生児は退院直前に、先天性代謝異常などを早期発見するために血液検査(スクリーニング)を必ず受けることになっている。その結果、孫娘には必須アミノ酸(ロイシン、イソロイシン、バリン)を分解する酵素が生まれつきない、非常に重篤な先天性代謝異常であることがわかった。フェニールケトン尿症(PKU)という病名は聞いたことがある人は少なからずいると思うが、「メープルシロップ尿症」はほとんどの人が、聞き覚えがないのではないだろうか。彼女はすでに急性脳浮腫と痙攣を起こしていた。

担当医からは、「メープルシロップ尿症」を発症する赤ちゃんの確率は日本人では64万人分の1であること、日本には70数人しか患者がいないこと、孫娘は、その中でも古典型といわれる最重篤の「メープルシロップ尿症」であり、予後についてはなんともいえない、経過をみていくしかないと告げられた。娘は涙を必死にこらえながら先生の話を聞いていた。治療方法は必須アミノ酸除去ミルクを一生涯飲み続けること、除去食を摂取することしかない。選択肢としては生体肝移植があるが、日本ではまだ一例もないことも分かった。孫娘はNICUの中で一週間以上生死の境をさまよっていたが、先生方の懸命な治療のおかげで、一命をとりとめ、8月14日に無事退院し、すくすくと成長している。しかし、熱を出したり、ミルクが飲めなくなったりしたら、すぐに点滴をしないと命が危ないという。極めて重篤な病を生まれながらにして背負った彼女にとって、生体肝移植はかなり現実味を帯びてきている。

孫娘の誕生によって「当事者」という言葉が実感を伴って私に迫ってきた。というのも、孫娘が「メープルシロップ尿症」であることが判明した時期に、山崎美貴子先生の論文『当事者、そして支える人々-市民活動につながる5つのプロセス』(『ネットワーク』2009/11-12)を用いて、「NPO・NGOの社会学」の講義を社会学部の学生にしていたからだ。山崎先生は、「社会を変える原動力」それが当事者の強みだと、次のように述べている。

「『当事者』とは、“そのことに直接関係のある人”という意味です。言い換えれば、いちばん当事者に関する情報を持っていて、当事者が何を望んでいるかをもっともわかっている人。そのことも当事者の持つ強みです。当事者自身、そして支える人々はそこにもっと着目していくべきだと思います」。

私は孫娘の病名が分かった際に、すぐさま先天性代謝異常の子どもを抱える親の会についてネット検索した。NPO法人「PKU親の会」が小児科医の先生方の協力で設立されていて、MSUDの親や子どもも会員として活動していた。早速、担当医を通して「PKU親の会」の方を紹介していただき、娘は親の会の会合に参加し、当事者同士で情報交換を始めている。一度は涙にくれた娘も、徐々に笑顔を取戻した。私は友人、知人、企業、行政の人たちに孫娘の話を積極的にすることにしている。「メープルシロップ尿症」という病名を知ってもらうことによって、先天性代謝異常だけでなく、様々な難病や障害と闘っている子どもたちや親たちに寄り添い、支える応援団になってほしいと思ったからだ。私は孫娘のおかげで、これまで見えなかった、知らなかった、関心をもってこなかった世界に目をむけることができた。私も積極的に活動に参加していこうと思っている。

ところで、学生には、孫娘の話をしながら、再度「当事者」と「当事者性」について講義を行った。私の言葉に何かを感じてくれたのだろう。講義のあと、数人の学生から応援メールが届いた。涙がこぼれた。