<取材・執筆>酒井 志菜 <取材先>マラリア・ノーモア・ジャパン 理事 長島 美紀さん
マラリアのない世界はやってくるのか―。2000年頃に年間73万人だったマラリアによる死者数は、蚊帳の普及などにより15年間で45万人に減った。その後、持続可能な開発目標「SDGs」の目標で根絶をめざしているものの、現在は減少に陰りが見られ、世界保健機関(WHO)によると、2019年は約40万人に留まります。
米国に本部を置く国際NGO、マラリア・ノーモア・ジャパンは、マラリアのない世界を目標として啓発活動や政策提言をしているほか、企業と連携して各国で蚊帳の配布などの活動を行っている。2017年から「ZEROマラリア2030キャンペーン」も実施している。
2030年までにマラリアをなくすこと、ゼロマラリアを実現することは可能なのだろうか。「ゼロマラリアに向かうには、ラスト1マイルが重要」というマラリア・ノーモア・ジャパン理事の長島美紀さんに話を聞いた。
ラスト1マイルの課題は「援助疲れ」
マラリアは欧米や日本などの先進国では薬剤や殺虫剤が普及したことなどにより土着はなく、マラリア流行国でマラリアにかかり帰国して発症する輸入マラリアのみとなっているが、アフリカや東南アジアなどでは脆弱な医療体制に加え、衛生環境も整っていないため、流行が防げていない。国際的な支援やマラリア流行国による自国の取り組みにより、死亡者数は2000年ごろから大幅に減少していたが、ここ数年は減り幅が小さくなっている。その理由の一つが「支援国の援助疲れ」だ。
マラリアの予防手段ははっきりしている。蚊帳を適切に使用することと早期治療の徹底だ。ところが、景気変動や様々な課題の中での優先順位付けの問題などによりマラリア対策への継続的な投資は年々難しくなっており、資金不足もあって十分な支援が行き届いていないのが現状である。
「蚊帳を配布するためには巨額のお金が必要になります」と長島さんは指摘する。「予防には蚊帳が一番有効なツール。けれど、蚊帳には有効期限があり、常に配り続けなければならず、それを継続できない援助疲れが起きています。死者数をより減らしていくためには、援助する国の意識をもっと高めることが必要です」。
アフリカなどでは「蚊帳は配られるもの」というのが前提。長島さんは「買うのを待っていては間に合いません。命にかかわることなので蚊帳を配っていきたい」と語った。
常に振りかかる「教育」という課題と連携
一方、蚊帳は配布して終わりではない。相手に適切な使い方を知ってもらうことも必要だ。長島さんはアフリカ西部、セネガルで現地の人から「扇風機で蚊を飛ばせば刺されない」と言われたことがある。扇風機で蚊を飛ばしたとしても、当然再び刺してくる可能性はある。こうした間違った知識がマラリア撲滅を阻んでいるのが実情だ。
マラリアに感染すると、悪寒と発熱が起き、脳症や肝障害などの合併症を引き起こして最悪の場合は死に至る。マラリア流行地域の政府は公衆衛生に関する歳出のうち40%をマラリア対策に費やし、財政負担は大きい。また感染症の流行は海外企業の誘致を阻み、経済成長の妨げにもなる。
直接的な経済損失額は120億ドルという試算もある。人が働けなくなるほか、免疫力の低い子どもが感染によって学校に行けず、栄養不足で障害が残るなど社会的な損失になる面もある。
マラリア・ノーモア・ジャパンが実施するキャンペーンでは昨年から新たなアプローチを検討する専門家や企業、メディアの関係者らと議論をする「ラウンドテーブル」を始め、様々なテーマで議論を深めている。6月のテーマは「稲作と感染症」だ。
「アフリカでは稲作が普及しつつあります。それに伴い、水田が増え、水辺で育つ蚊が多く発生している」。これまで農業分野と保健分野が分かれていたため、見えてこなかった課題だ。
「SDGs時代にマラリアとその他の課題をクロスさせることで新たな視点が生まれてきました。他にもジェンダー問題や産業育成にもマラリアは関わってきます。課題が複雑化する中で、新しい道で資金を得ることができるかもしれません」
マラリア・ノーモアの拠点は、米国・英国・日本にある。英国は独自に2023年までにマラリアの死者数を半減する目標を掲げ、米国は気候変動とマラリアの関係に重きを置くなど、各国でアプローチは異なるが、政治的な連携も進んでいる。
複雑な課題にとりくむパラレル(複業)ワーカー
長島さんはマラリア・ノーモア・ジャパン理事だけでなく「4つの顔」を持つ。SDGs市民社会ネットワーク業務執行理事、プラン・インターナショナル・ジャパンのアドボカシーチーム、そしてアーティストなどをマネージメントする会社も経営する。
もともとは国際機関で働いてみたかったという長島さん。NGO活動を始めたのは大学院博士課程のときだった。大学で研究助手をするかたわら、アフリカ関係のキャンペーンに参加した。小中高校は女子校育ちで、大学に入って初めてクラスメートに男性がいるという状況になった。そのときに「女性だから」という言葉には疑問を感じ、ジェンダー問題にも高い関心を持つようになる。博士論文ではアフリカの割礼の習慣を取り上げ、アフリカに関わるようになる。
様々なキャリアをもち新しい働き方をナチュラルに実践する長島さんだからこそ、マラリアという歴史の長い社会課題にも新たな視点をとりいれているのだろう。
「新しいことをやってみるというビジョンは常にあります。『既知が未知』になっていくことが好きです。ただ新しいことがやりたいわけではなく、今まで自分がやってきたことと新しいテーマが出会ったときに、どのような新しいインパクトが生まれるのか。そこに新しいソリューションを感じます。いろんな分野の仕事。一部に片寄っていないネットワーク。これを大切にしたい」
日本・世界での感染症拡大の可能性
日本でも昔からマラリアは存在していたが、現在は撲滅されている。しかし、地球温暖化で今後気温があがると蚊の生息域が広がり、生息密度も高くなることが予想されている
長島さんはマラリアだけでなく蚊が媒介する感染症について「蚊は越冬しなければ流行は続きません。でも、温暖化によって越冬する蚊が出てくるかもしれないといわれています。新型コロナウイルス感染拡大が落ち着いた後、人の移動が増えると、感染症リスクが高まります」と警鐘を鳴らす。
2016年のリオデジャネイロオリンピック直前には中南米地域で蚊が媒介するジカ熱が広がり、騒ぎになった。2014年には熱帯地域で流行しているデング熱が日本でも確認された。日本人は今後、新型コロナだけでなく、蚊を媒介にする感染症にも無関心ではいられないかもしれない。