「独裁者」というチャーリー・チャップリンの有名な映画がある。ご存知の方も多いと思うが、アドルフ・ヒトラーをモチーフにした風刺映画で、主人公の床屋さんが独裁者のそっくりさんだったところから間違えられて、かわりに演説する羽目になる。チャップリン扮する床屋さんは、この演説で強烈な独裁批判をするというもの。チャップリン自らが書いたとされるこの演説がとても感動的で、何やら今の時代にぴったりの要素が含まれている。曰く、「絶望してはいけない」「君たち、人々は人生を自由に、美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ。だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。皆でひとつになろう。新しい世界のために、皆が雇用の機会を与えられる、君たちが未来を与えられる、老後に安定を与えてくれる、常識のある世界のために闘おう」…。(*)

このところ、NPOの市民性について議論する機会が多い。他セクターの連携・協働が進む中、ともすれば緩い関係性が構築され、本来、きちんと議論しなくてはならないテーマを見て見ぬふり、あるいは見えてもいない状況に少なからぬNPOが陥っている気がする。連携・協働のいちばん根幹たるていねいなプロセスアプローチが大切にされていない。

日本NPOセンターは、現行の中長期ビジョンの中で、「NPO魂」(市民運動性・社会変革性の意識)という少し青くさい言葉を使っている。NPOの市民性は連携・協働の文脈においても「言うときは言う」ことで果たされていくのではないか。魂が失われたら、組織の社会的意義までも失ってしまう。

一方、先般の早瀬代表理事の視点・論点「NPOのトップマネージャーに求められる『自発的参加を支える力』」の論考中、「そもそもNPOには、ボランティアや寄付者の『参加』を得て事業を進めることにより、参画する人々が社会課題を『自分事』として捉え、『当事者』としての意識をもつ人々を広げる力がある」とされているように、今の社会状況では「市民の当事者性」もますます重要になってくる。低い投票率しかり、マスメディアの論調への迎合しかり、この世界をある方向性へ持ち込んでいるのは一般市民と言ってしまったら言い過ぎだろうか。

NPO関係者がSNS上で「この世界をある方向性に持ち込まれている」ことへの明確な意思を表明し始めている。SNSはどうしても同憂の士の集まりであり、その中で共感しあっても外への拡がりは見込めない。市民の「当事者性」をうながし、社会変革性の意識化をうながしていき、かつNPO自身もその変革性を磨くために、いまは侃侃諤諤喧々囂々の作戦会議が必要かもしれない。

なにかはじめますか。

* 映画「独裁者」のまとめサイトです。演説も見られます(映画そのものではなく多少恣意的な映像がかぶっていますが、そこはご愛嬌)
http://matome.naver.jp/odai/2134432853759771901