自発的で無償だが、必ずしも社会性を伴わない活動が「ボランティア」という名称で呼ばれなくなった。例えば、 オリパラボランティアのフィールドキャスト・シティキャストの名称のように、 イマドキ感があって軽やかで楽しげな呼称を採用するようになり、「ボランティア」という呼称の場合は苦役が連想される。そして前者には人が集まり、後者のボランティアは不足する。こんな図式がみられるのが、昨今のボランティアを取り巻く状況である。以下、求められるのに忌避されネガティブ評価される、後者の従来型のボランティアが不足する状況から、ボランティアのあり方を考えてみたい。
従来型ボランティアの主な担い手は、後期区分に足を踏み入れたシニアたちである。彼らが地域の福祉ニーズに応えるサービスをボランティアの力で作り上げ、かかわってきた。それがあって、充足されたニーズは少なくなかった。
このように、ボランティアは重いともいえるニーズに応えてきた。しかし、そんな活動は、軽やかさや楽しさや効率を重視するイマドキの市民が求めているものからは、遠いもののように映るのだろう。かつてのボランティアは「そうせざるをえなかった」のだが、イマドキ、そのような重たくて、面倒に巻き込まれそうな活動は忌避されるのである。社会調査からは、社会貢献意欲を持っている人は少なくないのに、参加者がさほど増えていないことがわかる。重たすぎるボランティアに参加するのは一部の人に限られる、ということの現れなのかもしれない。
このような状況に手をこまねいていてはいけないだろう。必要なことに人びとが手を貸すことのできる状況を作ることがなぜ重要なのか、ボランティアのあり方を問い続け、今年2月にこの世を去ったスーザン・エリスの力を借りて、考えてみたい。
アメリカのみならず、世界中のボランティア関係者に慕われ、オピニオンリーダーとして市民活動の価値を問い続けてきたスーザンだが、彼女の神髄は、「長いものに巻かれない」ことを大切にしていたことにある。権力の側とは常に距離を置き、対等な関係でいること、批判が言えることを大切にし、そのため在野でいることにこだわった。このような彼女の思想やこだわりが端的に表されているのが”From the Top Down” (邦訳書名は『なぜボランティアか?』2001)に書かれている「ボランティアが第一であることの10の理由」である。
読み取れるのは、どのようなボランティア活動であっても普遍的に有している価値はどこにあるのかということである。10の理由から4点紹介したい。
まずは「無報酬であるから信頼される」と「お金の目途が立たなくてもスタートできる」という2つの論点をあげたい。これらは経済の領域から独立したところにボランティアの強みがあるということを気づかせてくれるものである。持続可能な地域のためには、お互いの顔が見える範囲でまわる経済のしくみが必要で、それがグローバル化した経済のひずみを是正する、という議論へのアンチテーゼでもある。経済の論理だけで地域の課題解決をすることはできないのではないか、とするのがスーザンの理屈である。経済とは異なる論理、動機で動くボランティアがいるからこそ、共感が得られることは、ボランティアの支援者なら誰でも知っていることである。
また、資金がなくても、できることからはじめることで、思わぬ人や組織とつながって、新たな可能性が見つかることもよくあることである。資金調達は市民活動にとって常に課題であり、避けては通れないアジェンダであるが、資金がなくてもスタートできることはあるはず。スーザンはそう教えてくれる。
私が好きな論点は「ボランティアはぜいたくに焦点を定められる」というものである。これは、換言すればボランティアは自由にしたいことを選べるということであろう。仕事だと成立しないような狭い範囲の活動にこだわったり、さまざまな境界を越えて活動することもボランティアなら可能である。働き方が厳しくなる中、ぜいたくに焦点を定めて何かに集中することができるのは、ボランティアの醍醐味である。
最後に「有給のスタッフよりも自由な批判ができる」という論点を紹介したい。政府の振興策によってボランティア精神を醸成させるようなことをスーザンは嫌悪していたが、そのような政策を批判するためには自由でいなければならないことを示してくれている。
アメリカのNPOをまぶしく眺め、貪欲に学ぼうとした時期は過ぎ、日本のNPOも成熟の時代に入った。しかしそれでも私はスーザンのような信念を持つNPOのオピニオンリーダーが作る、厚みのあるアメリカ市民社会から学ぶことはまだあると思う。大きいものに取り込まれたほうが楽になるかもしれなくても、あえてそうせず、フリーハンドにこだわること。それがボランティアへの参加を社会のスタンダードにし、市民社会の厚みを増すのである。