『もしこの世に転生というものが本当にあるなら、私は債券市場に生まれ変わりたい。』30年程前にこう言ったのは、当時のビル・クリントン米大統領のアドバイザーでした。その理由は、債券市場は価格変動を通じて、政治家を思いのままにコントロールできるから、だったそうです。このエピソードを知らなかったのか、忘れたのか、2022年秋のエリザベス女王崩御の発表で記憶されるイギリスのリズ・トラス首相は、女王の国葬後、退陣に追い込まれました。在任期間49日は英国史上最短だそうです。トラス政権が『財務省が囚われている経済・財政政策の既成概念を打破する』として減税を目玉にした政策の導入を発表して、国債の暴落を招いたのが原因だったと報道されています。トラス政権の政策やその発表の仕方についての意見はいろいろあると思います。しかし、議会で過半数を大きく超える与党党首が率いた発足して間もない内閣を一瞬にして吹っ飛ばす力を市場が持つことを如実に示したこの出来事は、世界各国の政治家の脳裏に、首に突き付けられた短刀の冷たい感触の様にのちのちまで残るであろうことについて、恐らく異論は少ないでしょう。

市場の効用について楽観的な見方をする人々は、市場のメカニズムが無謀な政策の導入を防いだとして、トラス政権の退場を慶賀すべきことであったと考えているかもしれません。しかし、私は、この出来事が示した、民主的に決められた政策の導入を市場の力が阻む可能性について、もっと議論する必要があるように思います。議会の二院制を擁護する昔からの議論として『大衆は熱しやすく、ある方向に流されることがあるため、彼らに選ばれた議会は極端な政策を導入しかねない。このような事態を防ぐため、冷静な議論を行う第二院を設けるべき。』というものがあります。現代社会においては、顔が見えない巨大な金融・資本市場が、伝統的には第二院に期待されていた民意を抑制するような役割を担っていて、その事が民主主義を空洞化させかねない可能性について、私たち市民社会はもっと認識すべきではないかと私は思います。

歴史的には、ナポレオン戦争や第二次世界大戦では、イギリスやアメリカは戦費調達に際し、市場と上手に対話しコントロールしたことが戦勝の一つの要因になったと言われています。その市場が今や総理大臣を瞬時に交代させる力を見せつけたという出来事から、いくつかの疑問が生じます。例えば、近い将来、存在が危うくなるほどの危機に国家が直面した場合には、なにがしかの合意が市場との間に可能なのか? 地球温暖化はすでにそのような我々の存在上の危機であるとの意見は日に日に説得力を持つように思えるが、市場は、解決に必要なスピードと規模を今後容認し続けるのか? 市場の存在があまりに大きく参加者が多様となったことは、その変動が広範囲のステークホルダーに影響を及ぼすことで、社会全体にとって必要な改革実行への阻害要因になる懸念はないのか?

British Academy(英国学士院)は、2019年に『Principles for Purposeful Business (目的を持ったビジネスの原則)』という報告書を発表しました。この報告書は、企業の目的を株主利益の極大化とするのは60年程前に始まった考え方に過ぎないことを指摘し、これからの企業は、社会全体を考慮する歴史的な立ち位置に戻り、社会や環境課題を利益をあげつつ解決することをPurposeとすること。そのために法令やガバナンスの仕組み等を変えていくことを提言しています。英国の英知によるこの提言は、私たちが直面する様々な社会問題や環境問題を鑑みたとき、大変重要であると思います。しかし、これらの提言を全部実行に移したときに市場の反応がどうなるかについて考えると、実現するかについては、私は決して楽観はできないように思います。先駆的にPurpose経営を実践しているとして知られるユニリーバ社はその製品にもPurposeを設定していますが、業績と株価に不満な同社の大株主が『マヨネーズのPurpose(目的)はサラダとサンドウィッチだろう。』と公然と批判したという喜劇のような出来事は、私の直感を裏書きしているのかもしれません。

私たちは強欲な投資家と対決すべきであるという簡単な話ではありません。例えば、日本においても私たちの年金資金は、世界最大の機関投資家とされる年金積立金管理運用独立行政法人により内外の債券や株式に投資されています。さらに、政府は国民自らが株式投資により資産形成することを推奨するための政策を導入し、より多くの人々が株式市場に参加し始めています。これらの投資活動は経済成長の果実を活用して国民が資産形成を行い、さらに成長企業への資金供給が行われるという観点からは好ましいと一般的には考えられています。しかし、例えば、英国学士院が提案するように、企業の目的を株主利益の極大化からPurposeの実現に実際に移行させるとして、その過程で株式市場に大きな変動が生じ、私たちの年金資産や個人的に保有する資産に悪影響が出た場合、そのような社会全体としては望ましいと考えられる変革への抵抗が、強い民意となる可能性があるように思います。その意味で、私たちは個人的にも、刃物を隠し持った大きな市場にいつでも脅迫されうる状態なのかもしれません。

死後、アリクイやウニに転生することを選ばず、自らの人生をブラッシュアップしながら何度もやり直す主人公を描いたテレビドラマが、2023年前半に大変話題になりました。私たちも、この数十年をやり直せるなら、市場の影響が大きくなりすぎることについて声をあげるべきなのかもしれません。残念ながらそのような機会がない私たちは、まずは、何が起きているかについて真剣に考えてみる必要があるように思います。

本寄稿文における意見は筆者が所属する日本NPOセンターのものではなく、筆者の個人的な意見であることにご留意ください。また、英国学士院による報告書の解釈は筆者が同院と関係なく独自に行ったものです。さらに、筆者の判断で同報告書の特定の箇所を選んで議論を行っていますが、同論文を正確に理解するためには全体を読むべきであることにもご留意ください。

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