10月17日に開催された滋賀県首長会において、滋賀県東近江市の小椋市長が「文部科学省がフリースクールを認めてしまったことにがくぜんとしている。フリースクールは国家の根幹を崩してしまうことになりかねない(一部要約)」と発言し、基礎自治体による支援策について疑問を持つ他の首長も散見された。また、その後の小椋市長への囲み取材において、「不登校は子どものわがまま、大半の責任は親にある」との発言もあった。

 国民には、等しく教育を受ける権利が日本国憲法や教育基本法により保障されている。加えて2016年には、不登校や困窮等により学校に行くことが難しい子どもたちの増加に伴い対応が協議され、「教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律)」が制定された。にも拘わらず、市町村首長から前述の発言がなされた。基本的人権の尊重を無視した発言であり、市民の尊厳を冒涜する発言で、批判されるも今なお撤回されていない。今回の発言や思考は時代錯誤というよりも、子どもの尊厳だけでなく社会的弱者をはじめ、依存症や疾患など生きづらさを抱える人々全ての尊厳すら脅かす考えである。

先日、文部科学省により「令和4年度児童生徒の問題行動・不登校調査」の速報値が発表された。不登校[1]の子どもの数は29万9千人を超え、昨年度より5万人増加し10年間右上がりで増加したと示された。その数は東近江市総人口の約3倍だ。「子どものわがまま、親の責任」で済まされる数ではない。いち早く官民連携による受け皿の整備をしないと子どもたちの尊厳を守ることができなくなるのだ。

一方で学校教育の置かれた現状は深刻である。全国の学校で数千人の教員不足、年々非正規教員が増加し、働き方改革の推進の旗印のもと部活動の地域化を進めても長時間労働に変化はない。そのうえ、教員採用選考試験の倍率は低下し、現役大学生の青田刈りまで進めなければならない。加えて教員によるハラスメント行為の広がりなど、このような状況で学校教育こそが国家の根幹と言えるだろうか。市長が良しとする国家の根幹である学校教育事態が揺らいでいるのだ。それを敏感な子どもたちは感じ、態度で示していると捉えることはできないか?現場に足を運び、現状を直視すべきで、あまりにも責任のない態度と発言だ。このような考えが子どもだけでなく市民の尊厳を守れない制度・政策につながるのだ。他では「ラケーション制度[2]」を導入する市町村も出てきているというのに。

世の中の変化は早い、それに適応する施策を創るのが国や基礎自治体の役目である。その際に市民の尊厳を一番に考え、行動することが求められている。市民もそういう政治を選択すべきだろう。そうすることが、子どもが無理なく学べる環境の多様化につながり、次世代を担う子どもたちの基本的人権を守ることにつながる。そんな行動こそが生の教育の機会ではなかろうか。


[1] 何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由によるものを除いたもの(文部科学省定義)

[2] 家族の休みに合わせ、年3日間子どもが平日学校を休み家族旅行ができる新制度。