2020年のオリンピックボランティア、そして、大会ボランティアとしては、連続性をもって捉えられている、2019年ラグビーワールドカップの大会ボランティアとどう向き合うか。いま、関東を中心とした大学では動きが活発化しつつある。主としてスポーツや外国語等の特徴がある大学では、大学の個性を発信する機会と捉え、大学を挙げての支援体制が検討されていると聞いている。また、ボランティア活動についても、すでに募集が始まっており、オリンピック期間中、多くの大学でテスト期間と重なることから、どのように対応していくかについて、各大学で検討が始まっている。文部科学省からの配慮を促す通知は、その検討に対し、一定の影響があるものと考えられる。すでに、オリンピック期間中の試験期間をずらす決定をした大学もあると聞いている。もちろん、その理由はボランティアだけでなく、交通機関への影響なども考慮されているとのことであった。

本学においても、すでに地元行政のオリンピック担当者を招いての説明会を実施し、少人数ながら活動を希望する学生が名乗り出ている。

今回、村上氏の警鐘の記事(※)を拝見し、我々としても気を引き締めてコーディネートしていかなければと改めて感じている。国による絶対善の先導は、仮にその活動が重要かつ有効なものだとしても、それ以外の多様な活動を抑圧し、市民の自由・多様性を失わせる危険性を孕むものだと考えられる。市民社会を担うボランティアをサポートする専門職の端くれとして、その多様性を奪う危険性については、肝に銘じておきたい。と同時に学生一人一人の思いに丁寧に寄り添い、その判断と行動を応援していくことも私たちの大切な役割である。


目立つ国策的な動員型「ボランティア」促進の危うさ(村上 徹也)⇒


センターのスタッフ内で、オリンピックボランティアの募集について議論を行った際、冗談半分に「東京オリンピックに異議・反対のデモや活動を展開する学生ボランティアはセンターとして支援の対象になるのだろうか?」との話をしていたが、まさに市民によるボランティアの多様性とは、そのような両極の可能性をも包含するものであると考えられる。反対運動のデモは極論までも、現場においてオリンピックを盛り上げる活動も、また決してそうではない考え方やその活動についても、しっかりと認め、応援していきたい。

現在のところ、オリンピックのボランティア希望者は少人数ながら、中国やベトナム等の留学生から意欲的な声を聞くことができた。中国出身の学生からは、「まだ自身が幼かったため、北京オリンピックの熱だけは感じたが、今度は実際に自分も関わってみたい。」という声があり、ベトナム出身の学生からは、「自国での開催経験は無いが、いつか自分の国で開かれる日のためにと考え、ボランティアに参加したい」とのことであった。

学生たちには、国が先導しているからといって、ただ追従するものではなく、国の先導があるという事実を認識するとともに、そのことを自分たち自身で考え、選択をしていってもらいたい。少なくとも、私たちが現場で関わる中において、一つ一つの活動の意義とリスクについての理解を共有しながら、引き続き本人たちの主体的な行動を応援していきたい。