国連ビジネスと人権の作業部会の見解
国連のビジネスと人権の作業部会は、2023年8月4日の記者会見において、日本での調査についての初期的見解を公表しました。会見後の記者との質疑は、ジャニーズ事務所の問題が大きく取り上げられ、作業部会の登壇者が他の分野に関する質問を促しても、ジャニーズ事務所問題に関する質問を記者が続ける有様でした。会見後の報道も、国連がジャニーズ事務所問題を取り上げた点を強調したものがほとんどであったように思います。
ジャニーズ事務所問題は、多数の児童・少年への性加害事案であり、長年の報道機関の消極的な姿勢と合わせ、大変深刻な事案です。一方、作業部会は、女性、障がい者、先住民族、部落、技能実習生、移民労働者、LGBTQI+といった人々への差別解消に向けた取り組みの必要性や、東京電力福島第一原子力発電所で廃炉に携わる労働者の憂慮すべき労働慣行などの広範囲な問題を取り上げています。これらの問題についての対応が疎かになることがないようにすることが重要であることも論をまちません。
これらに加えて、会見内容には日本全体の取り組みについて私たち市民社会に関する重要な論点がありました。幸いにも国連の作業部会は、会見の内容をメモとして公表しています。本稿では、そのような論点を紹介するとともに、市民社会に与えられた宿題について考えてみたいと思います。
行動計画作成過程への不十分な関与と浸透不足
作業部会は、日本政府が、マルチセクターとの協議プロセスを踏んだうえで「『ビジネスと人権』に関する行動計画」(NAP)をアジアで2番目に作成したことを評価しています。
しかし、以下の痛烈な指摘を付け加えています。
「・・・特に東京以外の地域では、国連のビジネスと人権に関する指導原則(UNGPs)やNAPに対する認識が一般的に低いことが見受けられた。政府はUNGPsやNAPに関する研修や啓発ワークショップの実施において主導的な役割を果たすべきである。
47都道府県において、企業や企業団体に加え、労働組合、市民社会、地域社会の代表、人権擁護者などすべての関係者が、UNGPsやNAPが求める人権上の義務と責任を十分に理解する必要がある。これまでのところ、これらの関係者はNAPの策定に十分に関与しておらず、地方における多くのステークホルダーは、NAPの存在をまったく認識していなかった。(訳筆者)」
要するに、日本国政府がビジネスと人権に関し行動計画を作ったものの、策定時の関係者の関与は不十分で、日本社会にはほとんど浸透していない、との指摘です。この計画がコロナ禍の2020年に作成されたことが、これらの指摘事項の一因としてあるのかもしれませんが、これでは、やっていることはポチョムキン村※1と同じと指摘されているとさえ思えます。
※1 一見豊かな偽物の村のこと。ロシア皇帝エカテリーナ2世のクリミアへの行幸に際し臣下のポチョムキンが作らせたとされる。旧ソビエト連邦等で外国からの視察者を欺くために作られた施設を指しても使われる。
一方、係る事態を招いた一定の責任は、ビジネスと人権に関する取り組みという点で市民社会にもあるように思います。なぜなら、市民社会としても、例えば、UNGPsやNAPを踏まえて人権課題に取り組み、地域にこれらの浸透を図ることなどが十分可能であると考えられるからです※2。
※2 作業部会は、札幌市と地元LGBTQI+のコミュニティが、地元中小企業とともに、包摂的社会実現のためには中小企業の役割が重要であることについての認識向上を図っている取り組みをグッドプラクティスとして取り上げている。
日本の市民社会に求められること
作業部会はその見解の中で、日本政府に対し、日本に独立した人権機関がないことに懸念を示しています。また、政府が今後NAPを見直す際にはマルチセクターと共にギャップ分析や重点項目の見直しを適切に行うこと等を提言しています。さらに、中小企業での認識や取り組みが大企業に比べ大幅に劣後していることや、企業による人権デューディリジェンスの重要性が継続して重要であることを指摘しています。私たち日本の市民社会は、作業部会のこれらの提言や指摘事項に対する政府・企業の今後の対応を、注意深く見守り、必要に応じ声をあげ、自ら関与していくことが重要であると考えます。
日本の市民社会にはこれまでも、市民社会が、人権上の問題に関し、自ら行動し、社会を動かしてきた実績があります。例えば、HIVに関して、市民社会が連帯し、患者の障がい者認定に関して感染経路による差別を生じさせなかったこと、いわゆるエイズ予防法の廃止を実現したこと等※3が思い起こされます。直近でも、いわゆる寄附法制(不当勧誘防止法)に関して正当な寄付活動を妨げるような副作用を防ぐべく、市民社会が連帯して政府や国会に働きかけたことは、記憶に新しいところです。
※3 感染経路が不問になったことには当事者団体の連帯がありました。また、エイズ予防法廃止の動きは、ハンセン病の差別と闘ってきた人たちや歴史との連帯の成果であると言われています。
それが、なぜ今回、NAP策定時の関与が不十分であったことや、UNGPsやNAPに関する社会全体の認識不足を国連の作業部会に指摘されたのか? コロナ禍以外に要因はないのか? 例えば市民社会側の発想が、それぞれの専門領域でサイロ化していることが要因の一つとは考えられないか?
作業部会の見解はジャニーズ事務所問題だけではなく、私たち日本の市民社会への問いかけを含んでいると言えると思います。
本寄稿文における国連ビジネスと人権の作業部会が公表している初期的見解の翻訳および解釈は、すべて筆者たちが同作業部会と関係なく独自に行ったものです。また、筆者たちの判断で初期的見解から特定の箇所を選んで議論を行っていますが、同作業部会の見解を正確に理解するためには全体を読むべきであること、同作業部会の最終報告は2024年6月に予定されていることにご留意ください。さらに、意見については、筆者たちが所属する日本NPOセンターのものではなく、筆者たちの個人的な意見であることにもご留意ください。